自己主張とわがまま
新たな道へ進み始めた。リハビリのため、就業移行支援を受けることにした。
これまで職を転々としてきたが、どこに行っても必ず仕事の邪魔をしてくるような人物がいる。
仕事はできてもいつもそういう人物にあたり心が疲れてしまい仕事が続かなくなる。
もちろん、環境のせいだけではない。
毒親に育てられたことの弊害が大きいし、発達障碍の特性からできないこともある。二次障碍のうつ病もある。
一番の弊害は愛情不足による愛情飢餓感である。
人に受け入れてもらえていない不安が常にあり、自分を認めてほしいが故にあれこれと画策をする。自分を見てもらえるように。
子どもがわざと嫌がらせをして気をひこうとするのと同じだ。
そして相手に合わせすぎる。自分の主張をわがままだと言われてきた私は、自己主張もわがままと思ってしまい自分を出せなくなっていた。
自分というものがなく、自分の考えが常に正しいのか間違いなのか気にするようになり、攻撃されないようにまわりに合わせてきた。
まわりに合わせることで自分の心を護ろうとしてきた。
しかし、自分の心を護るということは逃げることではないし、我慢してまわりに合わせることでもない。
自分の思っていること、感じていることを認めることだ。
おかしいと思ったらおかしいでいい。
まわりとは違ってもいい。
私は私である、と自分の主張を堂々と伝えることだ。
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暴力には暴力で返せばよかったと今になって思う。
ひどく恐れていた相手はとてもちっぽけで一人では何もできない、情けないおばさんだった。
私が偽覚者である伊勢菊理に騙されたのは、思い通りに動かせる「駒」だったからだ。
覚醒したということを盾にやりたい放題やってきた。
何が覚醒だ。笑わせるな。
彼女は本物の覚者より、自分のほうが上だと豪語していた。いや、禅師に向かって何を言っているんだ?おまえは一週間不眠不休の修行ができるのか?
よくそんなことが言えたなぁと思う。修行してこい!と言いたい。
彼女はもうこの世にはいないけれど、禅師にようやく本当のことを伝えることができた。伊勢菊理が多分1番してほしくないことだろうと思う。
本物の禅師に、自分は偽物の覚醒者だということがばれてしまったのだから。
回復してきた今、こうして少しずつ反撃している。
やられたことをやられっぱなしにはしたくないからだ。
私的な復讐はよくない、許しましょうとかいう人がいるが、お金も健康もすべて奪ってまわりに迷惑をかけて好き放題やった人のことを許せる人がいるのだろうか。
許していいのだろうか?
伊勢菊理のような人物をわがままというのだ。
私は一生許すことはない。
ただ恨みや憎しみというのは時間とともに薄れてきた。
孤立していた伊勢菊理とは違い、私には味方がいる。まわりの人のおかげで洗脳から抜け出すことができ、奇跡的に回復できた。私一人で生きているわけではない。
伊勢菊理は私だけが最期まで傍にいたのに、そんな私のことを馬鹿にしてこけにした。騙されていたものの、たった一人の理解者までを自分から切り捨てた。
救いようがないどうしようもない馬鹿な人だ。
生まれ変わっていたとしてもロクな人生にはならないだろう。哀れとしかいいようがない。
私は伊勢菊理のような惨めな人生は絶対に嫌だ。
そのために努力をし続ける。人の言いなりにならず、自分というものをしっかりと持ってまわりに流されないように生きていきたい。